2008年12月03日
脱毛 稲生 さんのフリードリヒ2世のこと
どのような人生を歩んできたのでしょうか。
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フリードリヒ2世は1712年1月24日フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と王妃ゾフィー・ドロテーアの子として生まれた。父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は兵隊王とあだ名される無骨者で芸術を解さなかったが、母ゾフィー・ドロテーアは後のイギリス国王ジョージ1世の娘で洗練された宮廷人だった。そのため教育方針も正反対の2人は対立し、それは王子フリードリヒにも大きな影響を与えた。父王は王子フリードリヒの教育係に「オペラや喜劇などのくだらぬ愉しみには絶対に近づかせぬこと」と言い渡し一切の芸術に親しむことを禁じた。そのはなはだしい軍人嗜好を表す逸話として、太鼓の逸話がある。太鼓で遊ぶフリードリヒがうるさいのに怒った姉ヴィルヘルミーネが「そんなうるさいものはやめて、お花で遊んだらどうなの」と言うとフリードリヒが「花なんかで遊ぶより、太鼓を習ったほうが役に立つもん」と言ったのを聞いた父王は、さっそく太鼓を持つ王子の肖像画を描かせたという。
しかし生来芸術家気質のフリードリヒはむしろ母親似で音楽を好み、クヴァンツにフルートの手ほどきを受けて習熟、演奏会を開くこともあった。父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はそのようなことを耳にすると怒り狂って杖でフリードリヒを打ちすえたという。暴力、食事を与えない、蔵書を取り上げるなど、虐待に等しい境遇にフリードリヒはひたすら耐えて成長していったが、イギリス王女との縁談を機会についに逃亡を図ることになる。近衛騎兵少尉カッテとカイトに手引きを頼み、1730年8月5日早朝、旅行先の宿舎を抜け出したが計画はすでに漏れており、王太子フリードリヒはロッホ大佐によってその日のうちに連れ戻された。
この逃亡計画がフリードリヒ・ヴィルヘルム1世に知られ、フリードリヒはキュストリン要塞に幽閉された。このころ父王は国際的陰謀の渦中にあり、暗殺の恐怖に苛まれていたため、この逃亡計画も自分を陥れる罠だと考えてフリードリヒを処刑しようとまでしたという。手引きをしたカイト少尉はイギリスに逃亡したが、カッテ少尉は捕らえられて、見せしめのためフリードリヒの目の前で処刑された。フリードリヒが「カッテ、私を許してくれ!」と窓から叫ぶとカッテは「私は殿下のために喜んで死にます」と従容として斬首の刑を受けたという。フリードリヒは窓からその光景を見るよう強制されたが、正視できぬまま失神した。カッテの遺書には「私は国王陛下をお怨み申し上げません。殿下は今までどおり父上と母上を敬い、一刻も早く和解なさいますように。」と書かれていた。
フリードリヒは数週間後、父王にむけて手紙を書き、恭順の意を表したため、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はフリードリヒを釈放して、近くの王領地の管理に当たらせることにした。1733年6月12日には父の命令に従って、オーストリアの元帥であったブラウンシュヴァイク=リューネブルク公フェルディナント・アルブレヒト2世の娘エリーザベト・クリスティーネと結婚する。
エリーザベト・クリスティーネは容姿も美しく、信仰心が篤く、夫に好かれようとして様々な教養を身に付けようと努力した善良な女性だったが、平均的な知性の女性でフリードリヒの気を魅く事はなかった。夫婦としての生活もなく、後に七年戦争が終結したとき数年ぶりに会った彼女に対してフリードリヒが言ったのは「マダムは少しお太りになったようだ」の一言だけだったといわれる。そのため2人の間には子供がなく、フリードリヒ2世の後を継いだのは弟アウグスト・ヴィルヘルムと妃の妹ルイーゼの子フリードリヒ・ヴィルヘルムだった。しかし、それでも彼女は夫を尊敬し続け、フリードリヒとの文通は続いていたという。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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